〜第二次世界大戦後の日本経済の発展について〜
わが国は、第二次世界大戦によって、約200万人の尊い生命と国富のおよそ4分の1を失い、生産力のほとんどを使い果たして、1945年、終戦を迎えた。当時、国民は物資の欠乏、特に食糧の極度の不足により、戦時下よりもいっそうの耐乏生活へ追い込まれた。しかし、アメリカからの援助は、わが国の物資不足・食料難への救援として大きな貢献をした。
一方、国内の民主化が進められ、特に経済の民主化のために財閥の解体、農地改革、労働運動の公認という三つの大きな改革がおこなわれた。政府は経済の復興にあたって、石炭・電力・肥料・鉄鋼などの基幹産業の再建を重視し、その生産増強をはかるために1946年末、傾斜生産方式を採用した。
その資金は、日本銀行の引き受けによる復興金融債権の発行でまかなった。その結果、生産再開は起動に載ったが、通貨の増発がインフレーションを助長させることになった。
そのため政府は、1949年3月、ドッジ=ラインの実施によってインフレーションを収束させたが、国内経済は、深刻な不況(安定恐慌)にみまわれた。しかし、1950年に勃発した朝鮮戦争は、わが国に特需景気をもたらし、これをきっかけとして日本経済は不況から脱出した。その後は、比較的順調に経過して、1955年ごろには、ほぼ戦前の水準にまで経済は復興した。
日本経済は、1960年に発表された国民所得倍増計画によって、高度成長が一段と加速された。高度成長期の実質経済成長率は、平均10%以上の高い成長率を記録した。
この高度成長は、政府の保護と助成の下で、急速に進められた技術革新のための設備投資、これを資金面から支えた国民の高い貯蓄率、良質で豊富な労働力を背景としたものである。
技術革新の進展にともなって大量生産方式が成立し、石油化学工業・電子工業などの新しい産業が形成された。製造業の発展とともに第2次産業の比重が高まった。さらに、製造業の中でも軽工業から重化学工業への転換が進み、産業構造の高度化がみられるようになった。高度成長期の後半からは、自動車や電気機械などの組立加工型産業が拡大した。
1970年代に入って、円の切り上げ、変動相場制への移行などの国際経済の激動の中で、経済成長は減速し始め、第1次石油危機では狂乱物価という事態を引き起こし、1974年度には戦後初のマイナス成長を記録した。その後、省資源・省エネルギーをめざす産業転換や強力な財政政策を進めることによって、わが国の経済成長率は、4〜5%程度の安定的な成長をみせるようになった。
1980年代前半になると、日本経済は、ドル高・円安のもとで輸出が伸び、一方、石油を初めとする一次産品の輸入価格の下落から貿易黒字を増大させ、各国との間に種々の経済摩擦を生じさせることとなった。そのため、1985年のG5によるプラザ合意以降、政府は、公共投資の増大、輸入の拡大、輸出依存度の低下、貿易黒字の縮小をめざす総合経済政策をとって、内需主導型への構造転換を進めた。その結果、円高効果による安井輸入原料、低い金利という好条件もあって、公共投資、住宅投資、設備投資が伸び、消費も活発になった。
特に製造業の設備投資が増加したが、それはエレクトロニクス、情報技術を中心とする技術革新にともなうものであった。なお、産業構造全体としては、第3次産業の比重が一貫して増加しており、近年では、第3次産業が国内総生産額の約6割を占めている。
日本経済が輸出依存の経済から内需主導型の経済へと構造調整が進められる中で、国民生活の質的な向上と豊かさの実感が求められるようになった。それは、わが国の経済力と国民の生活実感との間に大きな格差があり、経済成長の効果がじゅうぶんに国民生活に及んでいるとはいえないからである。
特に長時間労働の解消、住宅および住環境の改善、社会資本の整備、物価の内外価格差の是正、土地問題の解決などが課題とされている。政府は、この問題を取り上げた「前川レポート」にそって、経済運営に取り組んでいる。
国民の一人一人が生活にゆとりと豊かさを感じることができる公正な社会の実現には、経済の構造自体を変えていく必要があると考えられるようになったのである。